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高山茶荃を世界へ、挑戦する茶荃職人

茶道に使う茶筌(ちゃせん)は、生駒市の北部にある高山地区が産地となっています。「まだまだ見習い中です」と話す谷村圭一郎さんに、茶荃職人になる前のことや、ご夫婦で始めた海外への販売について聞きました。

谷村圭一郎さん

生駒市高山町出身。父は伝統工芸士の谷村彌三郎(やさぶろう)氏。海外での学生生活後、大手総合スポーツメーカーに勤務。2020年、茶荃工房『翠華園谷村彌三郎』を継ぐため、家族と共に高山町へ戻る。同年7月から夫婦で新ブランド「SUIKAEN Takayamachasen」を立ち上げ、色糸を使った新しい茶荃を世界へ広める挑戦をはじめている。

茶荃のまち高山町で育ち、海外留学へ

高山町に戻られるまではどのようなことをしていたのでしょうか?

工房や茶室のある実家で育ち、高山町の小中学校を卒業し、奈良県内の高校に進学しました。中学高校はバスケットボールばかりしていました。幼い頃から家の手伝いは嫌いでしたが、工房に勤めるパートのおばちゃんたちには、とてもかわいがってもらっていました。

その後渡米して、大学では経済学を学び、卒業まで過ごした後、総合スポーツメーカーのアシックスに入社しました。バスケットボールの影響でシューズ好きでしたし、フットウエアの生産管理部に所属したので、留学の経験も生かせたと思います。

就職後8年間は神戸に住んでいました。結婚して子どもも産まれて、仕事も楽しんでいました。

順調にお勤めをされていたのに、なぜ茶荃職人になったのでしょうか?

全然戻るつもりはなかったんです。父からも「継いで欲しい」とは一度も言われませんでした。茶道の人口が減ってきていますし、最盛期は高山地区に50軒ほどあった茶荃の工房が今は18軒。この先食べていけるかもわからなかったので。

ただ帰る度に高山町に活気がなくなっているのを感じ、心のどこかで「このままでは、やばいな」とは思っていました。戻ってくる数年前に祖母が亡くなったのですが、生前から「継いで欲しい」という思いがあることは感じていたので、それが背中を押したのかもしれません。

これまでの経験を活かして、新しいことをしたい気持ちで帰って来ましたが、すぐにコロナ禍になってしまいました。少し焦りはありましたが、コロナ禍でおうち時間が増えたことで、家庭で楽しむ茶道への関心が高まり、夫婦で始めたSNSに多くの反響があり、嬉しかったですね。

伝統と新たな挑戦のあいだで

茶荃の現状と新ブランド「SUIKAEN Takayamachasen」について教えてください。

現状、国内産茶荃のほぼ100%を高山地区で作っていますが、昔から安価な外国産の茶筌の影響により、長い間苦戦してきました。材料となる竹は近畿圏内の山から切り出していますが、山を整備する人の減少により、竹林が荒れて、良質な竹の調達は年々難しくなっている現状もあります。

そのような中「伝統を楽しむ日常」をコンセプトにした「SUIKAEN Takayamachasen」では、これまで無かった「編み方を変える」ことに挑戦しました。市松模様やストライプ模様にカラフルな色糸で茶筌を編み上げ、チャームを付けた商品を市場に提案し、意匠権も取得しました。

海外の取引先には、日本の文化を知らない外国のユーザーが適切で快適に茶筌を使えるように、歴史や製法、保管方法など、モノづくりの背景と茶筌の特性をオンラインで伝え、理解してもらった上で海外で販売できる環境を作っています。

伝統工芸士でもある父の彌三郎さんは、新しい試みに対してどのような反応でしたか?

最初は大反対でした(笑)。父には茶道の先生方との長年の関係もありますので、伝統を受け継ぎ、守ってこられた先生方の手前、新しいことには戸惑いもあったと思います。

丁寧に説明しても、父は一心に受け継いできた伝統を守ってきた人なので喧嘩が絶えませんでした。しかし、ブランドを分けることで了承を得て、1年間で各大陸に1本でも新しい茶筌を販売することを約束し進めることができました。少しずつ出荷数も増え、わたしたち夫婦の熱意を認めてもらったという感じです。

わたしは、茶道の敷居は高いものであるべきだと考えています。茶道を究めるために多くの先生方が努力を重ねてこられた道に、敬意を持っています。敷居は高いままでも、そのすそ野は拡げていきたいです。

茶道は抹茶があれば、ほどほどの大きさのお茶碗なら何でもいいし、お湯を沸かして、あとは茶荃さえあれば気軽にお茶を点てられます。日常の小さな楽しみとして茶筌を使うことに親しんでもらいたいと思います。

文化は楽しいから続いている

お子さんをはじめ、将来を担う子どもたちに伝えたいことはありますか?また、今後取り組んでいきたいことはありますか?

実は幼い頃、父親がずっと家にいて、自宅でもある工房で仕事をしている姿を見て、サラリーマンや鍵っ子に憧れがあったんです。スーツを着た大人が格好良く見えたんでしょうね。今は父の事をそんな風には思いませんが、自分の子どもたちには、憧れられるような格好いい職人でいられたらいいなと思っています。

わたしは「文化は楽しいから続いている」と考えています。ダンスも音楽も能も茶道も、楽しくなかったら続かない。茶道は誰かにとって楽しかったからこそ、500年以上も続いてきたんだと思います。これからも楽しみながら、つくり続けていけるような環境を作りたいです。

茶荃づくりは分業で成り立っており、作業を手伝ってくれる人のおかげで、つくり続けることができます。その皆さんと高山からいろいろな国の人に茶筌を紹介できればいいなと思っています。

毎年、高山竹林園で開催される「高山竹あかり」は高山の職人さんが総出で準備しています。今後も多くの方々と連携して盛りあげていきたいと思います。

また現在、大阪市の小学校で5・6年生に茶道文化を教える活動をしています。そして、その子たちが卒業式で、ご両親に感謝を込めて一服のお抹茶を点てます。親も子も忘れることのない想い出の卒業式にしたいと思っています。ぜひこの活動が広がり、生駒市でも認めてもらえる日がくればうれしいです。

(2023.3.27)
ライター:いこまち宣伝部3期⽣ 小林まっこ / カメラマン:いこまち宣伝部3期⽣ 中垣由梨

冬には、工房の庭先に材料となる竹の寒干しが見られます。

いいサイクルはじめよう、いこまではじめよう

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